シュレーディンガーの猫とは
「シュレーディンガーの猫」とは、量子力学における有名なパラドックスである。説明はいろいろとあるのだが、「何が謎か」をよく理解しないまま書いている説明が多いので、そんな説明を読んでも、わけがわからなくなることが多い。そこで、「何が謎か」を、はっきりと説明しよう。要旨
「シュレーディンガーの猫」とは、次のパラドックスを言う。
(4) 量子力学で(波動関数によって)与えられる値は、存在確率であり、0と1の間の中間値である。 Ψ= 0.5 (5) 個数は中間的な値ではありえないのに、存在確率が中間的な値である。
かつ Ψ= 0.5 (6) では、両者はどういう関係にあるか? この関係は「重ね合わせ」という解釈で説明できる。それは、「二つの状態が同時に成立する」という意味だ。(コペンハーゲン解釈) 0.5 = 1 & 0● = ○ & ●
(同時成立) (7) ミクロの状態とマクロの状態を、うまく対応するように、結びつけることができるはずだ。(これが「シュレーディンガーの猫」の実験システム)

ミクロ = マクロ (8) ミクロにおいて「二つの状態が同時に成立する」のであれば、マクロにおいても「二つの状態が同時に成立する」というふうになるはずだ。 ミクロの同時成立 = マクロの同時成立 (9) そうとすれば、マクロの世界では、「『生』という状態と『死』という状態が同時に成立する」というふうになるはずだ。 [ Ψは0.5 ]= [猫は ● ]
(ミクロで) (マクロで) (10) しかし、「『生』という状態と『死』という状態が同時に成立する」ということは、ありえない。一匹の猫は、「生きていて、かつ、死んでいる」ということは、ありえない。ゆえに、矛盾。 × [ 猫は ● ]
× [ 猫は ○ かつ ● ]
(マクロでは、同時成立はありえない)
説明
前項のこと(表で示したこと)を、文章で書くと、次のようになる。
「ミクロの世界で、○ と ● が同時に成立する」(重ね合わせ状態)
と仮定しよう。そのあと、ミクロをマクロの世界に結びつける。すると、
「マクロの世界で、○ と ● が同時に成立する」(重ね合わせ状態)
というふうになるはずだ。
しかしながら、マクロの世界では、そんなことはありえない。(重ね合わせ状態はありえない。)── このことを、「猫は、生きていて、かつ、死んでいるのは、おかしい」というふうに表現できる。
これが、「シュレーディンガーの猫」のパラドックスだ。問題の本質
この問題の本質は、どこにあるか? 実は、次のことにある。
「量子を粒子と見なすこと」
量子を粒子と見なすと、量子は自然数の値(0または1)しか取れない。しかるに、波動関数で決まる値は、確率として定まるので、中間的な値(たとえば 0.5 )という値を取る。── この双方が成立しないことに、問題の本質がある。
そこで、成立しそうにないことを強引に成立させるために、「重ね合わせ」という解釈が生まれた。
つまり、個々の量子は「0または1」という値しか取れないとしても、「0の量子と1の量子が同時に存在する」と解釈すれば、両者の平均として「 0.5 という中間的な値を取ることになる」というわけだ。
しかしこれは、一種の文学的な解釈である。とうてい科学的とは言えない。もちろん、ほころびが出る。そのほころびが、「シュレーディンガーの猫」というパラドックスだ。二通りの解決
「シュレーディンガーの猫」のパラドックスは、二つの観点から解決がつく。
・ 論理学からの解決。
・ 量子力学からの解決。
この二つについて、順に説明しよう。論理学からの解決
論理力学からの解決は、簡単だ。次のように言える。
「このパラドックスでは、(7) は成立しない。つまり、ミクロの状態とマクロの状態を、うまく対応するように結びつけることは、できない。」
要するに、ミクロの世界はミクロの世界であり、マクロの世界はマクロの世界であり、両者を結びつけることはできないのだ。ミクロの世界では 0.5 という中間値は確率として成立するが、マクロの世界では生死について 0.5 という中間値は成立しない。両者はまったく別の世界のことであり、両者が結びつけられるというのは勘違いにすぎない。
( ※ つまり、 0.5 という値は同じでも、ミクロでは確率の値であり、マクロでは確率とは別の値だから、両者が同じだということにはならない。)
実は、この説明で、シュレーディンガーの猫のパラドックスは、論理的に完全に説明が付く。
要するに、「パラドックスの解答は?」という問題に対して、「パラドックスなどはなかった」と答えるのだ。「パラドックスがあると思い込んでいたのが誤りであり、実はパラドックスなどはもともと存在しなかった」というふうに答える。
どうしてか? そのわけは、こうだ。
「こういうこと(つまり (7) )ができるとすれば、矛盾が生じる」
というのが、パラドックスだった。「前件 ならば 後件」という形である。
しかしながら、そもそも、
「こういうこと(つまり (7) )ができる」
という前件が成立しないのだ。とすれば、この命題は、「前件 ならば 後件」という命題全体が無意味なのである。
この命題は、真偽を決めるまでもないのだ。「真でも矛盾、偽でも矛盾」というのがパラドックスであったが、実は「命題が無意味である」というのが、正解である。
かくて、パラドックスは、論理的に解決が付く。論理的に考える限り、謎などはどこにもない。量子力学からの解決
量子力学からの解決は、簡単ではない。かなり面倒な説明を要する。残る問題
論理学からの説明で、「シュレーディンガーの猫」というパラドックスは解決が付く。それなそれでいい。
ただし、「シュレーディンガーの猫」というパラドックスをひねり出したとき、最初に話題にした謎は、まだ解決が付いていない。それは次のような、量子力学の謎だ。
「波動関数で決まる値 Ψ (存在確率)は、いったい何を意味するのか?」
たとえば、 Ψ = 0.5 のとき、 0.5 という値は、いったい何を意味するのか?
実は、これを知ろうとして提出したのが、「シュレーディンガーの猫」というパラドックスだった。
そして、このパラドックスについては、上記の「論理学からの説明」で解決した。とはいえ、おおもとの疑問(「 0.5 という値は何を意味するのか?」という疑問)には、いまだ答えられていない。残る問題
量子力学においてこの問題を解決するには、革新的な発想を必要とする。
まず、「 0.5 という値は、いったい何を意味するのか?」という疑問には、こう答える。
「 0.5 という値は、ただの確率である。それ以外の何物でもない。」
これは、ごく当たり前に見えるが、非常に革新的な発想だ。なぜなら、次のことを意味するからだ。
「 0.5 という値は、0と1の重ね合わせではない」
この発想では、(6) の「重ね合わせ」という概念が否定されている。
しかしながら、「重ね合わせ」という概念は、「離散的な粒子」という発想から、必然的に生じる。したがって、「重ね合わせ」という概念を否定するとしたら、「離散的な粒子」という発想を否定することになる。
一方、(1) の「量子は離散的だ」というのは、量子力学の基礎として、実験的に完璧に証明されている。ゆえに、(1) は、否定されない。とすれば、残りの (2) の「量子は粒子だ」ということが否定される。
つまり、新たな革新的な発想では、
「量子は粒子である」
という発想が否定される。これが非常に重要だ。粒子/波
では、「量子は粒子である」(粒子説)という発想が否定されるとしたら、かわりに、どんな発想を取ればいいか?
この疑問に答えるために、これまでの発想を見よう。
古くからあるのは「量子は波である」(波動説)という発想だ。しかし、この発想が不十分であることは、「量子の粒子性」という実験から明らかである。(光電効果の実験など。)
一方、「波の性質をもつ粒子(ド・ブロイ波)」という概念もある。ただし、これは、「粒子説」に含まれる。(「波の性質をもたない単純な粒子」という純粋な粒子説は、今日では捨てられてしまっている。)
ド・ブロイ波の発想は、正しいか? 「正しい」と思われてきた。しかしながら、その発想が正しいとすると、おかしな結論が出てくる。──それを示したのが、「シュレーディンガーの猫」のパラドックスである。
かくて、単純な粒子説も、波動説も、はたまた粒子説を発展させたド・ブロイ波説も、いずれも不完全だ、と判明したことになる。砕かれた微細な粒子
まったく新たな発想を取ったのが、ファインマンだ。彼は
「一つの粒子ではなく、砕かれた微細な粒子」
という発想を取った。そして、この発想にもとづいて、「経路積分」という数式を導き出した。
ファインマンの発想では、「 0.5 」という値は、○ でも ● でもなく、砕かれた白の粒子と、砕かれた黒の粒子の、混合状態である。これは、無数の微粒子の混合状態である。もちろん、ひとつの ○ と ひとつの ● の重ね合わせではない。
従来の発想とファインマンの発想とは、明らかに異なる。二つの発想の違いは、総数の違いを見ればわかる。ファインマンの発想では、合計が1個。「重ね合わせ説」の発想では、合計が2個。こういうふうに、総数が異なる。
一般に、状態がn種類あるときには、「重ね合わせ」の発想では総数がn個になるが、ファインマンの発想では総数は常に1個である。
「重ね合わせ」の発想では、状態の数が増えるにつれて、量子の数がどんどん増えていくことになるが、ファインマンの発想では、そういうことはない。
量子が変動するとき(たとえば空間を移動するとき)、従来の発想では、一つの粒子が状態の数(n)だけ、たくさんに増殖することになる。しかしファインマンの発想では、一つの量子はあくまで一つのままであり、増殖することはない。
( ※ このことは非常に重要である。注意! 特に、コペンハーゲン解釈やエヴェレット解釈を正しいと信じている人は、このnという数で、「無限大の重ね合わせ」という難点が生じていることを理解するべし。)粒子の波
単なる「粒子」でもなく「波」でもなく、「粒子の波」という発想がある。これはまったく新たな発想だ。
以下の (i)~(iv) では、「粒子説/波動説/ド・ブロイ波説/粒子の波という説」の順で述べよう。
(i) 粒子説では、粒子が次のように移動する。(一つの粒子が位置を変える。)
(ii) 波動説では、波が次のように移動する。(波が位置を変える。)
(iii) 「ド・ブロイ波」説では、波の性質をもつ粒子が、次のように移動する。(粒子が位置を変える。)
(iv) 「粒子の波」という説では、「粒子の波」が次のように移動する。(粒子は移動しないが、粒子の振動が伝播する。)
このうち、(iv)の「粒子の波」という発想が重要だ。
「粒子の波」は、「粒子性」と「波動性」の双方の性質をもつ。次のように。
「一つ一つの量子は、離散的な粒子である」
「量子が移動するときは、粒子の移動ではなく、波の伝播の形を取る」
つまり、粒子は静止していて移動しないが、粒子が振動するとき、粒子の波は移動するわけだ。
( ※ 比喩的に言えば、サッカー球場における「人の波」が似ている。人は移動しないが、「人の波」は移動する。)
( ※ なんだか奇妙に見えるかもしれないが、物理学的には不思議ではない。たとえば、空気中の音波は「粒子の波」である。酸素や窒素などの分子は「粒子」と見なされ、その「粒子」が振動することで、「粒子の振動状態」が広範に伝播する。それが音波だ。上の図で言うと、物を叩いたとき、その物の振動が空気中で広く伝播することに相当する。より詳しい説明は、本文書の先にある別の文書を参照のこと。)
この「粒子の波」という発想から、次のことが結論される。
「波動関数は、粒子の存在確率を示すのではなく、波の伝播の状態を示す。粒子の個数は、0または1であるが、波の伝播の状態は、中間的な値を取れる。」
この発想に注意。ここでは、粒子説のように、
「0または1の値を取る粒子が、重ね合わせの状態にある」
というふうには解釈しない。かわりに、粒子でなく波について、
「波の状態の値が、中間的な値になる」
というふうに解釈する。等価性
「砕かれた微細な粒子」という解釈と、「粒子の波」という解釈は、よく似ている。
実は、両者は、数式で示すと、まったく同じになるのだ。その意味で、両者は本質的に等価である。
両者(この二つの解釈)は、まったく同じではないし、発想も異なる。だが、数式で示すと値が同じになるので、「値が同じ」という意味で、「等価」なのである。
似た例を挙げれば、「シュレーディンガーによる量子力学と、ハイゼンベルクによる量子力学が、たがいに等価である」というのと同様である。意義
この二つの解釈(「砕かれた微細な粒子」という解釈と、「粒子の波」という解釈)の等価性は、何を意味するか? 歴史的には、次のように順序がつく。
(1) 「砕かれた微細な粒子」という発想を、ファインマンが考案した。
(これによって「重ね合わせ」説の難点を、うまく逃れた。)
(2) ファインマンはその発想を数式化した。
(これがいわゆる「経路積分」である。)
(3) ファインマンの「砕かれた微細な粒子」というモデルには、難点がある。
「一つの粒子が現実に砕かれたり結合したりすることはありえない」ということだ。
(4) その難点を解決するために、「粒子の波」という発想が、新たに生じた。
これは数式では経路積分とまったく同じ数式をもたらす。換言すれば、
ファインマンの発想を、現実にありうる形にしたモデルが、「粒子の波」だ。
というわけで、「砕かれた微細な粒子」という解釈と、「粒子の波」という解釈は、実質的には(数理的には)等価である。この二つの発想は、コペンハーゲン解釈やエヴェレット解釈とは、まったく異なる発想だ。そしてまた、シュレーディンガーの猫のようなパラドックスを、もたらさない。
というわけで、この二つの解釈(砕かれた微細な粒子 or 粒子の波)を取ることによって、「シュレーディンガーの猫」の問題は、完全に解決されたことになる。と同時に、量子力学は、この二つの解釈を取ることで、すっきりとモデル化されることが判明したわけだ。
(逆に言えば、「コペンハーゲン解釈」や「重ね合わせ」という発想は、不自然なものとして、却下される。論理的に間違っているというわけではないが、それらはこの宇宙を示すモデルとしては不適切だ、ということがわかるわけだ。)結論
結局、「シュレーディンガーの猫」のパラドックスは、何を意味するか? 次のことだ。
「粒子説を前提とすると、おかしな結論が生じる」
つまり、粒子説を前提とする限り、(離散的な粒子の性質と、連続的な存在確率との対立で)、おかしな結論が出る。
そこで、これを避けるために、「重ね合わせ」という説を採用した。それで一応、片付いたはずだった。
だが、たとえ「重ね合わせ」という説を採用しても、それでもまだ、おかしな結論が出ることがある。それが、「シュレーディンガーの猫」というパラドックスだ。
「シュレーディンガーの猫」のパラドックスは、形式的には、難点を(論理学で)回避できる。しかし、難点を(論理学で)回避できても、難点を(量子力学で)解決できない。── これが本質だ。
( ※ この本質的な難点は、「シュレーディンガーの猫」でなく「二重スリット実験」において顕著に現れる。)
そこで、本質的な難点を(量子力学で)解決したい。そのためには、まったく新たな発想が必要となる。それが、「粒子の波」という発想だ。
【 まとめ 】
「粒子説を前提とすると、おかしな結論が生じる。『重ね合わせ』という概念を使うと片付くように見えるが、やはりまだおかしな問題が生じる。それが『シュレーディンガーの猫』という問題だ。── これは現代物理学の根本的な難点だ。これを本質的に解決するには、小手先の解釈で間に合わそうとするべきではなく、『量子は粒子だ』という根源的な発想を変更する必要がある。かわりに『粒子の波』という発想を取るべきだ。そうすれば、問題は完全に解決できる。」 【 解説 】
0.5 という中間的な値を説明したい。
ここで、粒子説を前提とすると、「灰色」または「白と黒の重ね合わせ」という発想が生じる。しかしその発想には無理がある。その無理が、シュレーディンガーの猫のパラドックスだ。
そこで、粒子説を捨てて、「波」であると理解すればよい。離散的な粒子については、0.5 という中間的な値を取ると考えると、不自然な結論が生じる。だが、連続的な波については、0.5 という中間的な値を取ると考えれば、自然な結論が出る。(だから、運動する粒子については、「離散的な粒子」と考えずに、「連続的な波」と考えればよい。……静止した粒子でなくて、運動する量子については。)
量子は波であると見なされるべきだ。では、量子が波であることは、どういうふうに説明されるべきか? そのためのモデルを使えばいい。ここで登場するのが、「粒子の波」という形のモデルである。つまり、量子が「粒子であると同時に波でもある」ということを示すための、具体的なモデルだ。このモデルは、「本質的には粒子であるが波の性質ももつ」というド・ブロイ波のモデルとはまったく異なるモデルだ。
( ※ ここでは、通常の量子力学の数式が否定されているわけではない。否定されているのは、ド・ブロイ波のモデルだけである。混同しないように注意。)
【 参考 】
理解を助けるために、図形で示そう。
それぞれの説は、「量子をどう見なすか」によって、次のように区別される。
かつ 
(1) 「粒子」説
○ と ● とが「重ね合わせ」の状態にある。
●●● ● ●●●●●●●●
●●●●●●●●●● ●●●
●●●●●●●● ●●●●
● ●●●●●●●●●●●
(2) 「砕かれた微細な粒子」説
微細な ○ と ● が無数に混合する。
(それぞれの大きさは無限小。無限小 × 無限個 = 1個)

(3) 「粒子の波」説
波が伝わるとき、それぞれの量子が振動する。
ここで、「振動」とは、 ○ と ● とが交替することである。(「粒子反粒子振動」という概念に近い。)
(比喩的に言えば、「人の波」が伝わるとき、それぞれの人が立ったり座ったりするのが「振動」に相当する。)
上の三つを対比しよう。
(1) …… 白と黒とが同時に成立するから、平均して灰色。
(2) …… 微小な白と黒とが空間的に分布するから、平均して灰色。
(3) …… 白と黒とが振動する(時間的に交替する)から、平均して灰色。
このように、「灰色とは何か?」をめぐって、三通りの解釈がある。
(1) では、「シュレーディンガーの猫」というパラドックスが生じる。
(2) と (3) では、パラドックスは生じない。また、(2) と (3) は、数式で示せば、等価である。
【 追記 】
上の三つの図を見ると、三つの解釈がどういう関係にあるか、よくわかる。特に、粒子説の位置づけがはっきりする。こうだ。
「粒子説の『重ね合わせ』という概念は、ただの文学的な比喩にすぎない」
説明しよう。
粒子説では「大きな白 ○ と、大きな黒 ● との『重ね合わせ』」という概念を取る。しかしそれは、文学的な比喩にすぎない。なぜなら、科学的に言えば、次のいずれかだからだ。
・ 空間的に、白と黒の混在状態 …… (4)
・ 時間的に、白と黒の混在状態 …… (5)
前者では、空間的に、小さな白と黒が混在している。
後者では、時間的に、白と黒とが交替している。
この二つは、空間的に細分されているか、時間的に細分されているか、どちらかである。そして、細分された小さな部分では、白または黒のどちらか一方になっている。いずれにせよ、白と黒とが同時に成立するわけではない。
とはいえ、巨視的には(つまり空間的または時間的に細分しなければ)、白と黒とが同時に成立しているように見える。そのせいで、白と黒の「重ね合わせ」というふうに勘違いしてしまうのだ。……これは一種の錯覚である。
似た例はある。
たとえば、液晶画面で、紫という色が表示されていたとしよう。これは、よく見ると、細分された赤と青の混合状態である。つまり、(4) に相当する。だから、科学的に言えば、「液晶画面の紫は、細分された赤と青の混合状態である」と見るのが正しい。しかし、離れたところから見ると、細分された赤と青の小さな領域がわからない。ゆえに、「大きな赤と大きな青の重ね合わせである」(赤いセロハンと青いセロハンが重なった状態である)というふうに思い込みやすい。……これが「重ね合わせ」説の勘違いだ。
紫 = 赤点 と 青点 の「散在」
紫 = 赤状態 と 青状態 の「重ね合わせ」

また、たとえば、映画のフィルムの1コマごとに、赤と青とが交代していたとしよう。(周期的な交替。) すると、それぞれの瞬間における光は、赤または青のどちらかであるのだが、残像の効果で、赤と青とが同時に成立しているように見える。ゆえに、「赤と青の重ね合わせである」(赤い光線と青い光線が重なって投影された状態である)というふうに思い込みやすい。……これが「重ね合わせ」説の勘違いだ。
いずれにしても、空間的または時間的に細分された赤または青があるのだが、巨視的に見ると、赤と青の重ね合わせ状態に見えるので、「まさしく赤と青とが重なっているのだ」というふうに錯覚してしまうのだ。次の図を参照。
●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●
この図では、小さな赤と青とが混在している。この混在を「空間的な分散」と見なせば (4) になり、「時間的な交替(振動)」と見なせば (5) となる。どちらにしても、数学的には等価である。(どちらも本質的には、同じように、上の図で示せる。座標軸が異なるだけ。)
ともあれ、こういうふうに、「細分されたものの混在」と見なすことができできる。
しかし、細分しないで、巨視的に見ると、「大きな赤と大きな青の『重ね合わせ』」というふうに理解してしまう。次の図のように。
━━━━━━━
+
━━━━━━━
しかし、こういうふうに見なすのは、文学的な比喩にすぎない。(一つのものが赤であり同時に青であるというのは、現実にはありえないからだ。)
そして、これまでは文学的な比喩で理解していたことを、科学的に理解するための解釈が、(4) と (5) なのだ。
この意味で、(4) と (5) は、(1) を否定しているわけではない。(1) が文学的に解釈していたこと[重ね合わせ]を、(4) と (5) は科学的に解釈しているだけだ。(4) と (5) という新しい説の意義は、これまでの文学的な解釈に、科学的な解釈を与えることなのだ。
これまでの見解では、「量子の世界では、日常の世界とはまったく別のことが生じている。だから、量子の世界のことを、日常の世界の概念では説明できない」というふうに説明されてきた。しかしそれは、文学的な解釈を取っているからだ。こういう文学的な解釈に代えて、科学的な解釈を与えるのが、(4) と (5) なのだ。
比喩的に言おう。昔は、水素と酸素が化合して水になることを、うまく説明できなかった。強いて説明するなら、「水は水素と酸素の重ね合わせの状態である」というふうに説明するだけだった。しかし、科学が発達すると、水素と酸素には分子や原子があることが判明した。巨視的には大きな連続的な気体のように見えても、本当は微細なものによって構成されていることが判明した。
そうだ。こういうふうに、「大きなものが本当は微細なものから構成されている」という事実を理解することが、科学的な理解だ。理解を諦めるべきではない。たとえば、「水素と酸素の化合は、日常生活のどんな解釈でも説明できないのだ。化学式で表現されるだけであり、それをそのまま理解するしかない」などと、「お手上げ」になるべきではない。たとえ巨視的にはわからなくとも、微細な領域の真実を知ることが、科学的な理解なのだ。
「重ね合わせ」という概念は、まったくの間違いというわけではない。しかし、それはいわば、原子や分子を知らない 18世紀の物理学に似ている。そういう不正確な(文学的な)理解に代えて、科学的な理解を与えるのが、(4) と (5) なのだ。……そのことが、上記の図から、判明する。(「赤と青の小さな丸の混在」の図でもいいし、「白と黒で灰色」という図でもいい。)
( ※ というわけで、このページは、粒子説の解釈を全否定しているわけではない。文学的な表現を、科学的な表現へと、改めているだけだ。……比喩的に言えば、「水は水素と酸素の重ね合わせである」という文学的な表現を、「水の分子は、水素原子と酸素原子から構成される」という科学的な表現に改めるようなものだ。)
《 余談 》
端的に言おう。従来の解釈と、新しい解釈とは、次の点で異なる。
「科学的に説明することを、諦めるか諦めないか」
従来の解釈は、科学的に説明することを諦めた。まず、「量子の世界は、日常の世界とはまったく異なっている」と信じた。(これは正しい。) そのあとで、「だから、量子の世界のことは、どんなモデルでも示せない」と信じた。(これは正しくない。)
一般的に、科学的に示すというのは、モデル的に示すということだ。なのに従来の解釈は、文学的に「重ね合わせ」という比喩を使うことで済ませた。つまり、モデル的・科学的に表現することを諦めた。「量子の世界のことは、数式でしか表現できないんだよ。モデルで表現することは不可能なんだよ」と強弁して。
しかし、文学的に「重ね合わせ」という比喩で済ませて来たことを、モデル的に表現しようとする科学的な立場もある。そうして生じたモデルが、(4)(5)のモデルだ。
ただし、である。こういうふうに「モデル的に考える」という立場を取る人は少ない。
そして、その少ない人の一人が、ファインマンだ。たいていの学者が数式だけであれこれと表現するときに、ファインマンは「あなたの考えを、図で示してくれ」と言った。すると、たいていの人は、途方に暮れてしまった。自分の考えを、数式で表現することはできても、図で表現することはできないのだ。
図で表現するということは、物事の本質を示すということだ。ファインマンは、そのことの重要性を理解していたから、「図で示してくれ」と言ったのだ。そして、たいていの人は、物事の本質を理解していないから、「図で示してくれ」と言われたとき、途方に暮れてしまうのだ。
このページでは、(4)(5)が(1)とどう違うかということを、図によって示した。その理由は、物事の本質を示すためだ。つまり、ファインマンの要請に応えるためだ。
要するに、このページの意図は、物事の本質を示すことだ。(モデルを使うことで。)
【 エピソード2 】
女に言われたあとで、男が決めつけた。
「半分好きだということは、好きな状態と好きでない状態とが、重ね合わせになっているんだ」
しかし女はいぶかった。
「重ね合わせ? それ、どういうこと?」
「体と体の重ね合わせじゃないよ」
「ふざけないで」
「いてっ。ぶつなよ。……つまりね、心と心の重ね合わせのことさ」
「あなたとあたしの?」
「じゃなくてね。きみ自身の心と心」
「どういうこと?」
「きみのなかに、二つの心がある。一つの心は好きだと言っているが、もう一つの心は好きでないと言っている。きみのなかに、二つの心が共存しているんだよ」
女は呆れた。
「あなた、馬鹿じゃないの? 心の平均値の計算なんかしないで。あのね。半分好きだということは、好きと嫌いがいっしょにあるということじゃないわよ」
「じゃ、何なのさ?」
「どちらでもあるんじゃなくて、どちらでもないのよ」
「え? 半分好きって、そういう意味かい?」
「当り前でしょ」
「僕のこと、好きでも嫌いでもない、ってこと?」
「まあね」
「そうかなあ」
「でも、そうなの」と断言した。「まだわからないの? あなたって、女心がちっともわからないのね」
「だって、物理学者だから……」
「ふん。こんなことじゃ、物理のことだって、どれだけ知っているか、怪しいもんだわ。あたしの方がよく知っているかもよ」
そう言われてみると、男は何だかそんな気がしてきた。
※ エピソードの続きは、「重ね合わせ」とは何か? のページで。
( 初心者向けの解説は、これで終わり。より詳しい話は、「表紙」のページから、もっと先のページを読んでほしい。)
【 オマケ 】
※ いわずもがなのことだが、このサイトは個人サイトである。
もちろん、内容も個人ホームページの内容である。ここは決して
日本物理学会のサイトではないし、百科事典のサイトでもない。
本サイトに掲載された文章は、すべて筆者個人の見解である。
勝手に勘違いして、「公的サイトでもないのに、公的サイトのフリ
をしているぞ」と怒り狂う人もいるが、この点、誤解なきように。
※ なお、誤解を避けるために、「 …… であると筆者は思う」という
文章を、いちいち書き足すべきかもしれない。しかし、そうすると、
それが数百箇所も追加されて、煩雑になりすぎて、読みにくくなる。
だからいちいち「 …… と筆者は思う」というふうには書かない。
こんなことは、常識的なことなのだから、勝手に怒らないでほしい。
(ついでに言えば、主流派の解釈も、「 …… と我らは思う」という
文句は付いていない。)
※ このページは、初心者向けではあるが、「イロハのイ」も知らない人
向けではない。シュレーディンガーの猫のイロハぐらいは知っている人
向けである。「イロハのイ」も知らない人は、別サイトで、イロハを勉強
してほしい。「ど素人向けにはコペンハーゲン解釈の説明が不足だ」と
怒る人もいるが、本サイトはど素人向けではない。怒らないでほしい。
※ 「コペンハーゲン解釈こそ正統的な解釈だ。それ以外の解釈は不要だ」
と思った末に、このサイトに書いてある文書の話を読んで、「トンデモだ」
と思う人がけっこういる。
実を言うと、コペンハーゲン解釈は正統的な解釈というわけではなく、
単に現状では比較的には支持者が多い、というだけのことにすぎない。
もちろん、定説ではない。絶対的に正しいと合意されたわけでもない。
※ 本サイトで述べていることは、「何通りかの解釈がある」ということと、
「そのうちの最後の解釈が、最も正しいだろう」という見解である。
(これに対して、「新たな解釈が提出されること自体がけしからん」と
怒り狂う人もいる。仮説や新説というものを拒否したがるわけだ。)
※ 以上のことがわからずに、「コペンハーゲン解釈こそ正統的な解釈だ」
と思い込んでいる人のために、下記の文書を用意した。疑問や不満を
感じた人は、下記の文書を読むといいだろう。
(ファインマンの発想を素直に理解できる人なら、いちいちこれを読む
必要はないが。)
→ 「核心」の誤解を避けるために
このページについて
氏 名 南堂久史
メール nando@js2.so-net.ne.jp
URL http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/quantum.htm (表紙ページ)